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TETSU STREET HITO 1988

KAWARAMACHI_STREET NO OMOSA PALAN2.

 

1988 Gallery Maronie[Kyoto]

TETSU STREET HITO 1988

河原町の重さⅡ

 

1988 Gallery Maronie[京都]

川端嘉人のやや無謀な企てに就いて

福永 重樹 京都国立近代美術館学芸員(1998)

 

川端嘉人の造形活動の中で、大きなプロジェクトとしては、取り壊し前の旧ギャラリーマロニエの建物と、その時点での環境と状況を利用した、

《TETSU STREET HITO1988/河原町の重さⅡ》の前に、兵庫県立近代美術館で開催された《アート・ナウ’86》への出品があった。

事態をはっきりとさせるために、遠慮なく言わせてもらえば、この時の出品作は、独活の大木的な劇的大失敗であった。先ず、場所の設定と、場所取り交渉からして、冴えないものであったらしい。(私としては、あまり言いたくないことであるが、それに、第一、面倒臭い。それなのに、西川のオジンと川端本人が、寄ってたかって『書け』、『書け』と、責めるものだから、年寄りの繰り言めいた冗長さを恐れず、昔話から蒸し返すことにする。)

彼がその年の《アート・ナウ‘86》に選ばれたのは、信濃橋画廊で開催された川端の個展における成果が、多くの識者たち、そしてアート・ナウ関係者から注目されていたからだと思う。この時の彼の作品は、第一に迫力が、あった。そして、第二に、信濃橋画廊の空間を、川端がしっかりと把握していた。何しろ、見る側の人々に与えるであろう効果とか感動までも、きちんと川端が計算していたような感じがした程であったのだから。

それから、今になって、解ったことであるが、もう一つ、非常に大事な事があったはずである。

信濃橋画廊で発表された川端の作品の分類/定義/評価と言うものを、川端の個展の直後か、遅くとも、《アート・ナウ‘86》の出品作家選考委員会の時に確立しておけば、川端の為には良い結果が期待出来たであろうと、いうことである。

当時の、川端の作品に対する認識は、「立体造形」、「環境造形」、「インスタレーションもどき」などと言った、「曖昧模糊」・『漠然』たるものであった。川端の造形は、もう少しその場所の特殊性(諸条件)に、著しく制約され、その場所の雰囲気に影響を受けるものである。

明け透けに言うならば、その場、その場に応じて、襖や壁を一つづつ飾る絵描き職人、風呂屋の風景画家専門の看板職人さん、或いは辻留さんの様に、お茶事毎に、料理の材料から食器にいたる迄、一切合切を持参して、亭主側の趣向に即応する、出張専門の懐石料理的性格が強い。

何処へでも作品の部品キットを持って行って、チョットした修正や、調整さえすれば、なんとか見られるものになると言ったレデイメイド性が通用するような作家とは、一味も、二味も違うのである。

この辺の、川端の造形の特性に就いての見定めが、信濃橋画廊での個展直後、少なくとも、《アート・ナウ‘86》の出品作家選考委員会の直前ぐらい迄に、川端自身をも含めて、確立/確定されていたら、事態はもうすこし増しな方向に向かったのではないかと、後知恵であるから、みっともないとは思いつつも、今になって残念に思うのである。

中西學、杉山知子、椎原保たちのインスタレーションを、川端の作品展開とは、良いとか、悪いとかの問題ではなくて、決定的に違うところがある。この決定的に違うところを、どう受け止めるか?

この違いを、無視するのか、それとも、ケース・バイ・ケースとして、慎重に対処するのか。此処のところの対応で、結果に大変な相違が出てくる。

ところが、《アート・ナウ’86》の出品作家選考委員会と美術館側と川端自身が、信濃橋画廊で発表した作品の持つ真の意義とその価値に就いて、その当時の時点で言えば、残念ながら、お互いに正しい認識に到達していなかったと、考えらえる。

そして、お互いが正しい認識に達していなかったという前提に立つ限りでは、兵庫県立近代美術館側の対応は、川端に対して非常に親切であったし、良心的であったと、言えると思う。しかしながら、あくまでも結果論で言えば(誤解を避ける為に再言するが、あくまでも結果論的に考えた場合である)、兵庫近美側も、川端自身も、対応を誤ったところがあると、言い得るであろう。

《アート・ナウ‘86》の出品作家に、川端が選ばれた頃には、既に川端の造形手法は、川端自身がいくら苦しくても、現実に正しく直面し、真実を求めて、自分自身に一番厳しく対応しながら、正しく進めて行けば、作品自体が、その場の真実と虚偽とを赤裸々に暴き出す機能と力を獲得してしまうところまで、到達していた。

だから、拙文の最初のほうで、この時の川端の『アート・ナウ’86展への出品作は、独活の大木的大失敗であった』と、書いたのは、作品の規模だけが、アート・ナウ的に、大々的になっただけで、表現そのものは、何の感動も呼び起こさなかったからだ。

表現と、作品の本質を、圧殺し、否定するような妥協は、妥協とは言わない。極端に言えば、それは、退歩・腐敗・堕落である。

兵庫県立近代美術館の2階の陳列室を、壁から壁へと横断する鉄板の量感と、建築と鉄との構成から醸し出される緊張感などが、川端嘉人の狙いであったのだろうと思う。

しかし、現実問題として、もしそんなことになったとしたら、観客の動線を、川端の作品が断つことになるから、歩道橋的なものを、陳列室内に設置しなくてはならなくなる。川端は、そうした処理をしてくれるように、美術館に依頼したらしいが、経費と場所とスペースの問題で難航したらしい。

結局、一方の壁側をあけて、そこを観客の通路とし、この壁側に仮設の、如何にも、川端の作品陳列スペースを作り出す(ひねり出す)為に作られた『仮設の壁です』を壁自身が観客に語り掛けているような、作り物めいた仮設の壁であった。

これでは、何の緊張感も無い。感動も無い。そこに存在したのは、責任逃れの《理屈》過ぎない。

壁自身が、『私は仮設の、作り物の壁です』と、観客に語り掛けているのだから、見る側も、白々しくならざるをえない。

何故かというと、この時の《アート・ナウ’86》展の出品者間で行われた『場所取り合戦』や、作家たちの要望を取り纏めて、調停と調整役を務めた兵庫近美側の対応とか、川端自身の作品陳列場所に就いての要求と、その対応と処理に苦悩したのであろう美術館側の態度と言ったものが、全部、川端の作品そのものによって、淡々と物語られていたからである。

兵庫県立近代美術館の《アート・ナウ’86》展に於いて、川端が意図した「本当の意味での作品展開の為の構想」と、仮にそれが実現されたとして、その成果がどれほどのものになるか?

この問題提起に就いて、他の出品者たちや、美術館側からの真の理解は得られなかった。ところで、こうした、同じ様な事態が、他の設備等で起きた時に、どうしたら良いのだろうか?

現在までのところ、はっきりとした解決策もしくは、解決の為の方法論が、確立されていないように思われる。

それでも、なお、問われれば、先ず、現在の時点で言えることは、美術館等の施設側の日頃の力量が問われている、ということと、同時に作家側の力量も問われている、ということであろう。

従って、川端に厳しく、かつ、連れ無い言い方になるが、《アート・ナウ’86》展の場合でも、もっと川端に作家的力量が豊かに備わっていれば、もっと別な、もっと素晴らしい作品を展示したかも知れない。

もっと別な、楽しい作品展開ができた可能性もある。この可能性は否定できない。

だから、《アート・ナウ’86》展において、川端は独活の大木的な、劇的な大失敗をやらかしたことになる。

川端としては、《アート・ナウ’86》展以後、捲土重來を期す気持ちが非常に強かっただろうと、想像される。

 

川端の《マロニエ計画》も聞かされて、年甲斐も無く、一も二も無く賛成したのは、信濃橋画廊の個展以来の川端の活動を見てきた者にとって、また、信濃橋画廊の個展に就いて提灯持ちの駄文を、某雑誌に書いて、某かの原稿料を稼いだ者にしてみれば、実に当然至極のことに思えたからである。

大河内菊雄館長先生が、これまた年甲斐も無く、川端の《マロニエ計画》の応援団長に納まったのも、同じような理由に依るのであろうと、当方としては、実に勝手気儘にそのように決め込んでいる訳である。『誠にもって、どうも申し訳無い次第であります』

大河内先生を始めと致しまして、川端には善意そのものの応援団員の方々が実に多い。これは、偏に、川端の人柄に依るものであり、その人脈は驚くほど幅広く、かつ厚い。現代デザインや、現代のグラフィック作家たち、それに税理士や計理士の皆様方、さらに弁護士の先生方、勿論、直接的な造形の専門分野に於ける多数の先輩方、御友人方、後輩の皆様方と、枚挙に遑無い有様なのだ。

こうした善意の、気風の良い方々の、お力添えで《河原町の重さ Ⅱ》のプロジェクトが、なんとか、まがりなりにも、1988年の6月27日に実現した。

それにも拘らず、川端は、「私はこの3年の制作の中で、鉄と場との力の衝突として、鉄の物理的な性質と場の構造的な特徴から、物の在り方の重力方向の限界・緊張状態を作り、そこに存在をみようとしてきました。今回はここに、私とプランに関わる人々をぶつけ、鉄と場と人間とのエネルギーの衝突として、重力方向の場の状態と遠心力方向の人間の状態を引き出し、その中から物と人間の存在をみつけていければ、と考えています。又、場として公共の道路を含んだ設定をしている事から、鉄と人間、社会と人間、社会と芸術といった必然的な衝突が生じるでしょうが、そこに存在の可能性が在るのだと思います。」と、能天気なことを、パンフレットに書いています。

然しながら、この文章の次の部分に、この様な生意気なことも書いています。

『このプランでは、特に場に関わる事と、プロセスとに問題と可能性があります。私にように作品と場が切り離して成立せず、場の構造に要求が大きい場合、発表の場を設定する事が重要な要素となります。』と、書いているのだから、少しは自分の事と、自分の作品の持つ意義に就いて、解ってきたのだと思う。

また、この文章の最終部分では、『Galleryマロニエの建築物を核に、美術と社会がストレートに交わる場として公共の道路を含む設定をしました。この設定は、周辺にお住まいの方々や、ご営業されておられる方々のご理解、ご支援と共に、道路を管理する立場にある京都市や警察署、消防署の方々のご協力を頂く事が必要不可欠な問題であります。この問題はプラン実現への大きな壁ですが、私と人間や社会との、エネルギーの衝突としてぶつかってみたいと思います。ここに、存在が眠っているはずです。』と、書いています。これから、決死の覚悟で出撃する特攻隊の青年航空将校の遺言のような言葉です。美しい願望の言葉です。

 

確かに、川端の言葉通りに、『存在が眠っていた』のだ。

川端の企画と、それを取り囲む状況と、人々と、社会との遭遇、衝突、様々なハプニングなどが巻き起こした力が、予測もしなかった大きな衝撃となって、眠っていた存在を揺り動かした。

但し、眠っていた存在は、川端が予測、或いは望んだ存在ではなかった。

その揺り動かされて、起き上がった存在とは、川端の企てに対する厳しい叱責であり、厳しい批判であり、厳し過ぎる程の川端の企画全般の中の不備・欠陥・弱点などに対する告発であり、冷静至極な評価者ともなったのである。

この眠っていた存在なるものは、川端に対しては、非常に厳しくて、冷酷であったが、多くの関係者たちが予想もしなかった、正確に言うと、予想も出来なかったある人物を、この大イヴェントの初頭において、大スターに祭り上げた。この大スターに比較すれば、本来主役であるべき川端なんぞは、ほんの端役に過ぎない存在に成り下がってしまった。

1988年6月27日午前零時か、前日の26日の夜半前頃からか、降り頻る雨の中を、ギャラリーマロニエ前の河原町通を運ばれてきた大鉄板の据え付け作業が始められた。

雨中で、夜半という時刻にも拘らず、多くの目撃者がいた。

6月27日の夕刻から、撤去作業が始められた。

 

この据え付けから撤去までの間に、動員されたり、或るいは巻きこまれた人々の数は、物見高い野次馬を含めて、大変なものになるだろう。川端本人が、パンフレットに、『遠心力方向の人間の状態を引き出し』と、書いた様に、作家自身は、前々から大変な数の人間が関与してくることを知っていたし、また、そうなるようにシナリオを書いてきたのだ。

口コミ、話題作り、河原町通という場所の設定、商店街や、警察などの関与、老人顧問団の結成等々、人々が集まるように仕掛けは着々と整えられていた。

こうした大量の人間を、巧みな仕掛けから上手に集め、巧みに繰りながら動員するということは、會ての豊臣秀吉や、織田信長、上杉謙信、武田信玄、新田義貞、足利尊氏、北畠親房、源義家たちの武将と同じような次元の問題なのであろうか?

戦術論、方法論としては、多分に共通するところが多々あると、考えられる。何故ならば、多くの企業経営者たちの為のセミナーや、中間管理職の為の再教育研修セミナーでは、戦国時代を巧妙に生き抜いた武将たちを主人公にした歴史小説とか、戦国武将たちの言行録が、大事な教科書となっているからである。

だからといって、徳川家康や毛利元就などの言行を、100%そのまま、現代の造形方法論の中に取り入れる可し、とはならないであろう。戦略論としての人心収攬術を、問題にする場合、私的・営利的企業の経営者や、そうした企業内管理職ならば、戦国武将なり江戸幕府の戦略論との時代的ギャップと、当然それらに伴う倫理観、社会観、体制観、労働観などのギャップに目を塞いでいることも出来ようが、川端のように、現代に生きる芸術家としては、倫理観や、人間観などの時代的ギャップに、目を瞑ることは、作家としての自己の存在する基盤を否定することになる。

こうした戦略的な人集めで、国際的に有名なのは、アメリカのクリストであろう。ヴァレイ・カーテンとか、ランニング・フェンス(39kmの長さにわたって、金属製の枠とそれに張られた白い布が、砂漠の丘陵地帯を横断する巨大イヴェント)などの成功によって、いよいよ有名になったが、マイアミ近海の島島を、ピンク色の布で包囲する巨大プロジェクトを実現させて、最近の環境問題の視点からの問題意識を厳しく保持しながら、環境デザイン、環境造形の分野をも取り込んだ、広汎な現代造形の在り方に就いて、大きな問題提起をしている。

扨、川端本人の問題に戻るが、川端の造形活動と造形のための構想から導き出される多面的な諸々の運動も、いわゆる純粋な立体造形・現代彫刻の分野での多面的な近代以降の未解決で過酷な課題、人集めとか大量動員とかの分野での戦国大名・戦国武将的な人心収攬術的分野(政治的・社会的・社交的・外向的)での皮相的であるが重要にして抜本的な課題、更に非常に優れて今日的なトピックスである環境問題に対応する為の姿勢と課題、等々と多元的、多面的、重層的なアプローチが、必須のものとして認識される状況になって来た。

現在の川端嘉人が到達している、このような状況は、この数年間の造形上の実績と、《アート・ナウ’86》展出品以来、表面上、川端個人の作品でありながら、作品の設置方法や、設置場所の決定などが、作家である川端個人の意思だけではどうにもならない事態になってきたかのように見える。

一見すると、こうした事態を、好転させるのも、悪化させるのも、最早、川端個人の力や、意思ではどうにもならなくなったように見えて、作家自身の義務として厳しく捉える考え方を、否定しているようにも思える。

しかし、こうした単に表面上の事態の動きを、作家自身の制作環境整備(制作現場周囲の理解と協力を積極的に求める努力、展示効果の正確で、厳密な予測を可能にする為の努力、その他諸々の努力など)の為の積極的働き掛けを、怠る口実にしてはならない。

作家は、常に制作行為と、それに依って直接的に引き起こされてくる諸々の事態、及び影響などの全責任を負うべきなのである。

例えば、川端の旧マロニエに於ける試み・制作行為は、川端自身が狙っていた本来の表現意図から、大きく逸脱してしまっている領域(京都市内の河原町に面した旧マロニエを取り囲む地域に関わる現代の政治的状況、政策的な状況=警察、消防、町内会、市政協力会、商店街などをめぐる様々な動きと、明瞭に映し出してしまったのだ。と同時に、これらの領域に於ける諸々の動きについても、川端は当然のこととして、責任を問われることになった。

このような状況は、多分に現代的なものと言える。

だからと言って、現代の表現活動の全てが、政治的、経済的、社会的な諸状況と、それらに対応するべく現出してきた政策的・政略的な諸状況のなかに巻き込まれてしまうのではない。

作家自身の表現意図と、作品制作の規模によって、作家と作品を取り囲む環境的条件の如何に依るところ大である。従って、作家自身の自由な選択の余地というものが、環境的造形の場合でも、全く無いとは言えないのである。

《アート・ナウ’86》展に於ける川端の見るも無惨な失敗の責任が、兵庫県立近代美術館の2階展示室という限定された空間・環境であり、約20名近い作家たちの場所取り合戦というやや川端に不利な条件があったとはいえ、やはり川端本人に負わされることになる。

 

それに、これは実に重要なポイントになると考えているのだが、彼の母校には『構想設計』という、造形素材や造形技法と離れた実技の専攻コースがある。

川端自身が学んだか、学ばなかったかは知らないが、彼の母校が『構想設計』コースを設けていることは、『構想設計』という概念なり、『構想設計』コースに託した理念なり、視点の必要性と重要性を、彼の母校が天下に堂々とその理念を表明していることになる。

自分自身の母校が、天下に堂々とその理念を表明し、その高貴な使命を宣伝している『構想設計』なるものの内容を、川端が軽視することは許されない。

この辺のことぐらい、川端も良く知っているのである。

だが、知っているのと、実行するのとでは、五十歩百歩の違いでは、済まされないくらいの大間違いである。

『構想設計』の内容を、大雑把に2つに分けるとしよう。ここでは無理矢理、強引に『構想設計』と、『設計』に分ける。

そして、『構想』は作家の思想・哲学から発する作品制作意図もしくは、作品のコンセプトなどとすると、川端も流石に作家の端くれだけのことはあって、この部分は相当に深く、慎重に、野心的に練ってある。

次に、『設計』の部分であるが、これは、実行計画と作業配分計画、材料その他必要物資調達計画及び予算策定と資金調達の実施、協力者の動員計画と実施計画、制作活動の全般に亘る狭義にせよ、広義にしろ様々な、考え得る全ての環境(制作現場の確保とか場所の決定だけでなく、これまでにも問題にしてきた整備計画と実施計画、広報活動の詳細策定と実施計画の策定、諸活動全般の十分にして完璧なやや贅沢気味な記録活動の策定と実行、前記したような計画実行地点・地域をめぐる警察、消防、町内会、商店街などに対する抜かりの無い対応)の整備など、優れて現代的な状況に対する慎重極り無い配慮、気配りなどが要請される。実に大変な事である。御苦労な事だ。ひとりの作家というものに、十人分、二十人分の天才的才能と役割分担が厳しく求められるからだ。お気の毒と、御同情申し上げたい気分にすらなりかねない。

ひとりで、オブジェ的な立体作品でも、こつこつと作っていれば、こんな苦しい思いや、苦労などする必要がまったく無いのだ。

しかし、このような苦しみだらけの事態を招いたのは、あるいは、苦しみだらけの事態の真っ只中に、身の程知らずにも飛びこんで行ったのは川端自身である。

川端自身が、彼の造形のスケールと難度を、身の程知らずにか、気宇壮大にか、一気に拡大したのだ。

造形のスケールを拡大すればするほど、関与する空間と人間の範囲が幾何級数的に拡大するのだ。算術級数的にではなく、三乗、四乗的に拡大する。

この川端のスケールの拡大は、単体としてのオブジェ造り(近代的彫刻造り)から、システムを通した立体造形(現代的彫刻造り)への、画期的展開もしくは、昇華とも言い得る。造形作家としての川端嘉人の自覚と覚悟の深化・発展・拡大・明確化として捉えることもできるし、川端の思想性が、よりシャープに、より現代化したとも言えよう。

従って、無責任、冷静、野次馬的観点からすれば、《アート・ナウ’86》の前の信濃橋画廊で行われた川端の個展は、成功であり、この成功と好評に気を良くした川端が、やや慢心して、兵庫県立近代美術館の《アート・ナウ’86》に超大作の作品を出して不成功に終わり、旧マロニエの建物を利用した大鉄板のプロジェクトでは、非常に大勢の人々を巻き込みながら、なんとなくお祭り騒ぎ的で、何が何なのか分からないうちに、騒ぎが終わってしまったという感じであろう。

こうした観点を、無下に否定することはできないが、こうした観点からは、川端の作家としての内面的・精神的進展や、作品そのものの質的変化、それぞれの作品の方向性の違いなど(端的に言うと、作家として成長したこと)が見え難いという憾がある。

夫々の作品が、不成功作、失敗作、駄作、迷作だとしても、一つ一つの作品が持っている、内面的で非常に重要な意義、意味、方向性、作品相互の関連性、時代性の意義などを厳密に見据え、判断し、批判し、評価する観点・視点などが、作家の側にも、鑑賞者側にも必要なのだ。

そうした意味に於いて、大きな内面的・質的な大変遷を比較的短期間に成し遂げた川端のような作家の、近年の大プロジェクトの内容と経過等をしみじみと振り返ってみることは、極めて重要だ。

誰もが、夫々に見落としていた点、見てはいたがそれ程に、意味があるとは感じられなかった事柄というものが、この様な試みを通して、明確化されて行く。

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